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「あの娘はハデ好き 友達がいっぱい/だけど入院した時 来たのはママだけ」

(注意:ネットからの抜粋です↓)


「あの娘はハデ好き 友達がいっぱい/だけど入院した時 来たのはママだけ」

「あの娘はハデ好き いつも楽しそう/だけどクリスマスの夜 淋しく過ごした」
(「あの娘はハデ好き」作詞・飯島愛、1993年)



2008年のクリスマス・イブに報じられた、タレント飯島愛の訃報。

すわ自殺か、と一瞬思われたものの、その後の報道では「死後数日経過していた」
「死因は肺炎らしい」と、想像以上に寂しく孤独な最期が明らかになりつつある。

冒頭に引いたのは、彼女の2ndシングルの歌詞だ。
この予言的な内容が本人の手によるものだとは、まったく因果な話である。

飯島愛はバブル崩壊後の92年3月にAVデビューした。
72年生まれの意外な“団塊ジュニア”世代でもある。
デビューと同時にテレビ東京系のお色気バラエティ番組『ギルガメッシュないと』での
Tバック姿が人気を博し、翌年には司会に昇格。
また次第に一般トークバラエティにも活動の場を広げ、コメンテイター的ポジションを得る。

さらに2000年の著書『プラトニック・セックス』(小学館)は100万部を超える
ベストセラーとなった。
14歳から家出を繰り返し、ディスコやラブホテルを渡り歩いて、次第にクラブのホステスや
AVの仕事をするようになっていった自身の10代~20代前半を振り返った半自伝的エッセイだ。

波瀾万丈なエピソードに時おりポエムのような日記を織り交ぜた不幸語りのスタイルは、
のちの「ケータイ小説」に通ずるものとも言われている。

AV女優への道を進んだ家出少女から、全国区のテレビタレントへ。
飯島愛が体現した運と才能の物語は、ある種の女の子たちにとって希望であり続けた。

だからこそ、というべきか、『小悪魔ageha』(インフォレスト)の最新号(2009年3月号)は、
巻頭2ページにわたって少々行き過ぎた追悼ビジュアルを展開している。
キャバ嬢風ファッションに時おりトラウマ的な心情吐露をミックスした誌面が独得な同誌だが、
この見開きは“age嬢”モデル44名が黒衣で合掌する中、
「大好きです。飯島愛さん、ゆっくりお休みになってください。」と大書されているものだ。
まるで五百羅漢のような迫力である。

もちろん、『プラトニック・セックス』に代表される、親子の断絶、刹那的な夜遊び、
濃密な恋愛模様といったドラマティックな要素が、こうした共感や憧れを呼ぶのは
当然とも言える。
ただ、この人のプロフィールには、そうした紋切り型に収まらないユニークさがあるように思われる。

例えば、ディスコ通いの挙げ句、DJの彼氏とつき合っていたというのは想像の範囲だが、
彼の影響で自分もDJを目指していたというのは、『プラトニック・セックス』には描かれない
エピソードだ。
15歳でターンテーブルとDJ機材一式を買い、「ミキサーは誰が良くって、レーベルはこう見て、
ミックスはこれでって、会話出来るのが幸せ。だから向上心はありましたよ。彼には凄く洗脳
されました」(『レコードマップ’96』学陽書房、1995、p.23)。
意外な“クリエイター志向”の側面がそこにある。

実際、AVデビュー前の90年冬にニューヨークへ行った際には、洋服などに目もくれず、
現場のDJが使用する12インチ盤ばかり50枚ほども買い込んで帰ってきたのだという。
また、現地の大箱クラブ「パラディアム」の天井に流されていたCG映像にはカルチャー
ショックを受け、後にはこんな発言もしている。

「で、アタシの夢はねえ、ソーホーのロフトみたいな部屋を借りて、壁を自分の好きな色に
塗り変えたりなんかしてね。アートスクールにも通って一人前のCG デザイナーになれたら最高!
いつのことかはわからないけれど、「絶対ニューヨークで暮らすんだ!」」
(『どうせバカだと思ってんでしょ!!』徳間書店、 1994、p.215)。

ちなみにこの本の表紙は、Macintosh Quadora 800を駆使した、
CGアーティスト飯島愛の処女作だ。
19歳になったばかりの彼女が、1000万円の契約金と引き換えにAVデビューを決心したのは、
この“ニューヨーク移住”への憧れゆえだった。
逆に言えば、セクシー・アイドルとしての職業意識は微妙なものだったことがさまざまな発言からも伺える。

筆者には、『ギルガメッシュないと』の“卒業式”での彼女の姿が印象に残っている。
同僚の女の子たちに花束を贈られながら、「みんなお尻出して、恥ずかしかったよね。
でも番組をよくするために、がんばったんだよね」と声をかけていたのだ。
仲間の前ではっきりと「恥ずかしかった」と口にする姿に、なんだかこちらも厳粛な気持ちに
なってしまったものである。

死の直前まで続いた自身のブログでも、さまざまなサブカルチャー志向が滲んでいた。
押井守のアニメや『機動戦士ガンダム』に泣き、カサビアンやアークティック・モンキーズといったバンドを
愛し、「FUJI ROCK」や「サマソニ」を楽しむ夏フェス派の音楽ファン。
2007年3月の芸能界引退宣言後は、“無職”に窮して「デザイン事務所でバイト」しようかなどと
殊勝なことを漏らしたりもしていた。

そこから感じられるのは、エロから発して芸能人へ、という奇跡の転身を遂げた本人の意志や
したたかさよりも、「よく生き残ってきたなあ」という偶然や運のはかなさだ。
冒頭に引いた歌にしても、華やかなイメージの裏側を自虐的なユーモアを交えて歌ったものだった。
まばゆい希望のシンデレラ・ストーリーと、あくまで「タレント」止まりに徹した聡明さや身の丈感覚との
奇妙な同居。
平成不況の15年を駆け抜けた、彼女の孤独な死が複雑な感慨を残したゆえんである。

瀧坂亮「あの娘はハデ好き 飯島愛の15年戦争」 - ビジスタニュース
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by lootone | 2010-12-27 16:32 | ・ある出来事と言葉